クズからの脱出 ~クズ5~

 離婚してください。の手紙を読んだ私は子供とだけは離れたくなかった。

ただ いろいろ悩みはあった。

 家族で住んでいたマンション 1人になると 今まで見なかったポストの中は 催促状ばかりが入っていた。

 いよいよ今までのツケが回ってきたようだ。

サラ金からの催促状やカードの支払いの催促状。 どんどんお金が払えないことで 怖くなっていく。 

 寝るときもお金が浮かんできて寝れなくなるので気が狂いそうになった。

 今の時代のようにインターネットなどで検索とはいかないので 頭の悪い 私には どうしていいのかわからない。

 子供と離れたくない お金もない。 何をどうすればいいか ・・・

地元のツレに相談した。 そこで紹介してもらった弁護士の先生のところへ。

 紹介してもらった先生も忙しいということで 先生から紹介してもらった別の先生が弁護士費用50万円で、 現金用意できれば弁護を引き受けてくれるといわれ しばし保留にしてもらった。

 費用を稼ぐためにバイトもした。

昼間は家具屋 火 木 土の夜はデ○ヘルのドライバーをした。 しかもカーナビもない車で地図を頼りに。

友人からお金を貸してもらい 50万用意ができて破産宣告の依頼をした。

 その合間に嫁との離婚話がすすむ。

嫁と嫁姉と嫁の母親と私で話したとき 嫁の姉から めちゃめちゃ攻撃された。

この時は全てに どーでもいいと、なげやりな状態で 嫁の離婚には素直に納得してしまった。

 嫁からの一方的な話し合いだったので慰謝料なしの生活費10万円支払うことで合意した。

 ただ悲しかったのは 嫁姉からは毎晩帰りが遅いのは女がいてるから、など、あることないこと言われたが 全てに否定しなかった。

 月に1回は娘に会わせてほしい とだけ頼み込んだ。

 これで 自分なりに楽しかった生活も終わりに近づいてくる。

クズからの脱出 ~クズ4~

 娘が生まれて 嫁の車だけだったので ファミリーカーを購入。

車はインプレッサWR-Xバージョン2だったと思う。

仕事も家庭も いつも通り変わらず 、だんだんと仕事の単価が悪くなり 日当も一気にダウン。

それで大変になってきたのが サラ金の返済。

月に100万近く稼いでたのが半分ぐらいになった。

親方から1棟請負してたのも 仕事がなくなって 解散。

 知り合いの大工班に移り 日当も更に下がっていき どんどんサラ金の返済に困り果てる。

 

 型枠大工を長年やっていると ろくでもない仲間もいる。 だんだん そんな仲間とツルむようになる。

自分より借金ある人間と一緒にいると何故か安心するので 今までの友人から離れてしまった。

 サラ金も大手から借り入れできないので どんどん金利の高い金融から借りてしまう。

購入した車を盗まれたことにして 車内に消火器をぶち巻き 車両保険で降りたお金を高利貸しに返済。

 

 大工から 別の仕事に代わることにした。

それは内装業で 家具屋の仕事だった。

大工から家具屋になるのに 2ヶ月間 嫁に内緒で先輩が働く風俗店の店員のバイトを嫁には内緒で働くのだったが 給料が安くなり 嫁も働き始めた。

 私が昼間の仕事だったので嫁は近所のスナックで働く。

 そーなると嫁との会話もなくなる。

 風俗店のバイトから家具屋の仕事に転職したのが34歳。

 めっちゃくちゃ働いた。

さっさと覚えて これから借金を真面目に返して家族のためにがんばろうと この時 初めてそう思った。

 たまたま家具屋の仕事が忙しく、毎日 夜の9時 10時に帰ってきて 嫁の母親と娘が待っていてくれた。

 

 やっと自分が真面目になったと思った時には嫁とのすれ違い。

 嫁の誕生日 スナックのバイトだったので プレゼントをテーブルに置いて寝た。 

 朝起きてビックリしたのが テーブルの上には ロレックスの時計やヴィトンのカバンや財布 が置いていた。 

 思わず まだ開けていないプレゼント  安物の指輪を持って仕事に出た。

 その夜は家に帰らず 車中泊したのを思い出だす。(涙)

 翌朝、仕事に行き 普通に帰宅すると義母と娘がいない。

 テーブルに手紙。

 

 離婚してください。 娘は実家で母親と居ます。 もう マンションには戻りません。

 

 そう手紙には書いてあった。

 

 

 

クズからの脱出 ~クズ3~

 子供が産まれた。 女の子だった。 めっちゃくちゃかわいい 真面目に働くぞ❗

と覚悟するも 贅沢病は治らない。

なぜ 貯金をしないのか? 今、考えると簡単なことで これが後悔というもの。

 

 幼少時代 めちゃめちゃ貧乏だった。 私が子供のころは周りも同じような環境だったので、自分が貧乏だとも思わなかった。

小学1年生 新しいランドセル 。

そんなもん買ってもらえなかった。

新しい机

タンスで義父が作ってくれた。

私の実父は3歳の時に亡くなった。母と祖母の3人で引っ越ししたぼろアパートで私と仲良くしてくれたおじさんと母が再婚して 入学祝いにタンスで机を作ってくれた。

が 嬉しいはずもなかった。

 2年生の冬に引っ越しをして 2DKのハイツに引っ越し。

大阪市内から環境のいい場所。

 この2DKのハイツを見たとき 家に黒電話とお風呂があることにビックリして大金持ちになったと錯覚する。

 

だが環境の良いところ 周りは金持ちっぽい同級生達で私のランドセル代わりの肩掛けのカバンにみんな 驚いてたのを今でも覚えている。 

 このころは勉強も嫌いでなかったので 順調に真面目にしていれば中卒とはならなかった。

はずだが

 

 小学5年の時の担任が私とは合わなかった。

 

  1に算数 2に算数3・4がなくて5に算数。

 

授業は国 算 理 社はするものの それ以外は算数ばかり  私はここで勉強についていけず クラスに馴染めなかった。

 

 この担任になると仲の良かった別のクラスの友達らも離れて行くので 勉強できない仲間 2~3人が 親友となる。

 6時限目が終わって さっさと家に帰り親友たちと毎日、遊ぶ。

この担任は6時限目終わったあとも補習授業を行う。

私と仲間は補習授業にでず 遊び回る。 担任に嫌われる  毎日 怒られる。

 7月の授業で体育はプール。

「プールに入りたい人?」

先生か言うと 手をあげるのは 私と仲間の3人だけ。

 「ではプールはなしで算数を始める」

 「・・・・・・・・」

算数と言っても 教科書はやらない 先生が問題を読む 生徒はノートに問題を書く できた人から先生のところへ行き正解であれば 100点マークが貰える。

 ちなみに高校大学の問題らしく いわば数学問題なのです。

 方程式やいろいろな数式を補習授業で教えてくれるので 私含みの仲間は「・・・」なのでした。 

 学期末 最後の授業では この100点の数を発表していくのですが 私と仲間たちは

「0」と答えて回りに笑われる

そして先生にバカにされる。

さらにクラスの誰かが 私と仲間たちが屋根の上で遊んでいるとチクられて 

 「クラスの面汚しが!」と何発もビンタをくらう。 

 給食袋が1つないと まずは私たちが疑われる。

 毎日 ビビりながら学校に行ってたのが 今では不思議だ。

 

今ならパワハラと言えるけど当時は 母親にも怖くて言えなかった。

 

さらに遠足終了後 学校のグランドで輪になって 巨○の星の歌をフルコースで円陣を組んで歌わされる。

 私は大のタイガースファン 阪神子供の会にも入っていた。

 

 とにかく、この先生がイヤだった。

 けど 誰にも言えない。仲間たちも同じ気持ちだった。

 

6年もクラス替えがないので同じ先生。

 

 ふつーに地獄だった。

 

 唯一 授業で嬉しかったのが百人一首

 

 1番から10番ぐらいは覚えたけど 私と仲間以外は100番まで覚え 名前までも全て答えられる。 

 それでも楽しかった。 はず 

やっと卒業の時には 先生と生徒たちは泣きまくっていた。

 私と仲間たちは 凄く 嬉しくても とにかく 我慢した。

 

 解放された。

 

この2年間で勉強が嫌いになった。

 

ありがとう ○○先生。

 

貴方のおかげで中学では まったく勉強しなかったので高校のことも まったく考えなかった。

 

贅沢病の話からそれてしまったが 中卒から仕事で 始めてもらった給料での一発目に欲しい物を買う。

 

ここから 何でも働いたら買えるという楽しさを覚えたのだった。

 

 

 

クズからの脱出 ~クズ2~

 嫁には毎月50万生活費を渡し残りが小遣い。

結婚しててもギャンブルは辞めれない 依存症だったと今は思う。

 仕事中に携帯電話が鳴った。 このころの最新携帯はiモード機能がついた電話だったが 私はまだ古い関西デジタルフォン?だったかドコモに機種変してたか。 まだレンタルの時代で それでも満足な電話だった。

嫁が 「今日は車に乗って仕事?」と聞かれ なんのことかサッパリ。

当時は今のようには、飲酒運転も厳しくなかったので 車に乗って呑みに行くこともあった。

 一瞬、呑んで車を置いて帰ったかと思ったが 、そんな記憶もなく 急いで家に帰った。

マンション1階が駐車場で 私の車は盗みやすい場所ではなかったし改造していて エンジンを掛ければマフラーのうるさい音で気づくはずだった。 がない。

 記憶をたどっても まったく思い出せない。

盗まれた とまったく感じてない私は 時間が立つとともに やっと盗難にあったと自覚する。

以前この車で タイヤとホイールを盗まれた。 知り合いの車屋で車両保険を使い  自分でキズをつけ 全塗装とタイヤ&ホイール インチアップ フルエアロした 天罰がここで下った。 と今ならそう思える。

 

 普通ならショックも大きいが 子の当時の私は 見つかっても車両保険で何とかなる。程度で見つからなければ全額戻ってくると 物を大事にすることすら 考えられなかった。

 

 結局は全額降りる数日前に見つかり エアロパーツだけ盗まれ そのまま売り飛ばした。

たしか そのお金で車のローンを終わらせたはず。

 結婚して1年半 子供にも恵まれず 子供ができないので新しい車を購入しようと嫁と話し合い。

その直後に嫁から「妊娠した!」と嬉しい報告があった。 これから調子にノッテ行けるのか? いえいえ まだまだ序の口の不幸もボディーブローを打たれたように ジワジワやってくるのでした。

 

 

クズからの脱出 ~クズ編~

 26歳の時に親方から 1棟マンションの請負をしろと言われた。

30人程いるメンバーから 4人~5人連れていってよいと言われ  仲のいいメンバーを集め 5人で 打ちっぱなしマンションをすることに。

この時は案外、運が良いほうで彼女と同棲も始める。

22歳~25歳ぐらいまでは とにかく貢ぎに貢いだ。 高給取りで貯金どころか サラ金に手をつけて 彼女ができた頃には200万ぐらい借り入れしていた。

 

 この時はいつでも返せると余裕な気持ちだった。

彼女と同棲の時も 1ヶ月 無駄使いしなければ40万~50万 賃貸 保証金払えるので お金に心配もしなかった。

 1棟請負した時は売上400万以上あったので 私は帯つき1本とメンバーとの食事代30万を頂き 残りは4人に支払いしていた。

 

どんぶり勘定しかできない私が ドンドン堕ちていくのが この時にはわかるはずもない。

同棲している彼女には 生活費50万渡して残りの50万は私の小遣いだった。

さっさとサラ金に返済していれば5ヶ月もあれば終わっていたものの 親方気取りで サラ金には金利分だけ返済し あとは ギャンブルとプロの女遊びで ずっと こんな時代が続くと思っていた。

毎日、新聞は読んでたよ。 サンスポですがなにか?

 

そんな彼女と そのまま結婚。 

私の車は日産のお高いスポーツカー。

彼女の車はコンパクトカーと2台持ち。

彼女から嫁に変わり しばらくは 幸せな生活が続きますが これでグズからの脱出はできると思いますか?

 まずお金のありがたみをわかってない私。

いつになったらわかるのか?

この時 26歳 働き盛りで調子にノッテいる私。

大工としてもイッパシの職人で仕事の早さも自信あったのに これから下っていくのでした。

お題 クズから脱出1にしておこう。

貢ぐようになってからは さらにお金が必要になる。

 毎月100万近く貰っているのに 貯金もなんかまったくしない。

私は当時 素人童貞。 プロとばかり遊んでたので素人の女性に対しては奥手だった。

貢ぐようになったのは年上のスナックの女性で 自分から話ししなくても 会話上手な人だったので 簡単に惚れてしまった。

 結局は騙されてたんだけど(涙)

よーく考えたら 22歳までの女性関係は 

 風俗でチェリーボーイ卒業 相手の年齢はおかんと同じぐらいなお相撲さんを小さくしたような女性。

東京にいる間は新宿にあった 『のぞき部屋』

で事をすませる。

大阪に戻って お水な女性 この時は幸せだったかも。

大工になって たくさん悪い事を覚えると同時に貢ぎ屋になる。

お金を貢いで 遊ぶのはプロとばかり。

 普通の友達は大学に行き 人生の勉強をしっかり覚え 悪い方向に進むことなく 幸せ組へとなっていくのでした。

そやそや

ツレと遊ぶ時も勘違い。 大学生のツレは金がない 私は調子にノッて 高い焼き肉屋に連れて行き 自分に酔いしれる。

 

 若いうちにたくさんの金を持つことは悪くない。 ただ 生きた使い方ができるかできないか、私は大工で育ててもらった 豪快なお金の使い方を教わったので 貯金という言葉すら頭になかった。

 とうぜん国民年金や確定申告なんか まったく関係ない。その後 どうなるかは ゆっくりブログに書こうと思う。

 今でも仲の良いツレ (年に1回ぐらいしか会わないけど)  このツレと同じぐらいになろうと思ったら 宝くじ5000万ぐらい 当たらないと 横一線にはならない。

 

それだけ ろくな生き方をしていなかった証拠

今日のブログは生い立ちから離れてしまったが これはこれで 継続できたことに感謝。

 

 

 

5日目

昨日は私の誕生日。 帰宅したら息子達が 「おめでとう!」とお出迎え。

長男は私に缶ビール1ダース。

次男はプロ野球チップス

 

晩飯はすき焼きと幸せな時間とお酒の呑みすぎで ブログをすっかり 忘れてた。

 

 さて一昨日の続きで

 型枠大工の最初の給料は8000×日数分。

 親方の給料袋を見た時、封筒が縦に立っているではありませんか!

 あの光景を見て プロのミュージシャンの夢は一瞬に消えた。

 

私は死に物狂いで働き、先輩であるツレに負けたくなかったので 親方に図面の勉強を仕事が終わってから 色々、教えてもらった。

 

 仕事中は「見て覚えろ!」と今の教育とは全然違う。 ただ 私の勘違いで1フロアつづ同じ作りなので 使う材料も持ち上がり、 私の勘違いで仕事ができる。 と思うようになる。

給料も揚がらない。 私はとってもっとも怖い親方に「辞めさせてください」と 言って そこから離れ  どん底への道へと進むのであった。

 

 まず 新聞三行記事で 見つけて仕事を始めても、周りの職人から相手されず ただ金遣いの粗い連中の中で 即効辞めた。

 言い方が悪いが や○ざ養成学校のような○○建設や○○工業とかが当時は多かった。

 

 マトモな職場をみつけるのに いろんなところで働いちゃぁ 辞め と持続力のない私が出来上がっていく。

 

 やっと マトモな職場で働くも 博打イコール職人。 やらないヤツは根性なしと決めつけられる。

 やっとおちついた会社で覚えたのは麻雀。

3人打ちの上がり麻雀で役満すれば 祝儀で2万支払う。 

 ええカモになりましたが 中毒になりやめられなかった。 

 現場仕事では 花札 麻雀 仕事終わりはパチンコ 土日は競馬と仕事 博打 酒と 立派な大人になれない人生を歩んでいった。

 

 親方に連れて行かれたスナックで 女に惚れてからは貢ぐことも覚える。

 職人となってからの給料は100万近くかせいでいたけど22~23の糞ガキは 貯金もせず 毎月使い果たすのであった。

 

 ここまで育てあげられた私は まだまだ序の口で もっと もっと 腐った人間へとなっていくのでした。

まだまだ 書き足らないので ゆっくり思い出しながらブログを進めていくので 今日はこれぐらいで。

 

 そろそろお題も考えないといけないなぁと思うようになってきた。